ガッポガッポと、|砂利道《じゃりみち》を一台の|荷馬車《にばしゃ》が進む。道の|両脇《りょうわき》には雑草が生い茂り、田畑もあった。|疎《まば》らではあるが、家屋が並んでいる。けれど家のほとんどはボロボロで、人が住んでいる気配はなかった。 周囲には|尖《とが》った山が多く、側には|運河《うんが》が流れている。水は|透明《とうめい》で、底を泳ぐ魚の姿すら見えた。 雑草の合間から野うさぎが飛び出しては、どこかへと行ってしまう。 見上げた空は青く、雲はゆったりと動いていた。太陽の光が|眩《まぶし》しく地上を照らしている。どこまでも続く空には|鳶《とんび》が飛んでおり、鳴き声が遠ざかっていった。「──うわあ、自然がいっぱいだあ! あ、うさぎがいる。可愛い!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は荷馬車の窓から顔を出し、もふもふとしたうさぎを目で追いかける。 彼らは水の都である蘇錫市(そしゃくし)を後にし、次の場所へ向かうべく馬車に乗っていた。 黒髪で三つ編み、美しい顔立ちの長身の男は|全 思風《チュアン スーファン》だ。彼は整った顔立ちに笑みを浮かべながら、前の椅子に座って|手綱《たずな》を|曳《ひ》いている。鼻歌を|披露《ひろう》しながら|優雅《ゆうが》に先頭を陣取る様は|吟遊詩人《ぎんゆうしじん》のよう。 馬の身体に巻きついた|紐《ひも》を操作し、|砂利道《じゃりみち》を進んだ。 そんな彼を尻目に、荷馬車には|二人《・・》の者がのんびりと座っていた。 一人は|禿《とく》という|國《くに》では珍しい銀の髪を持つ、|儚《はかな》き見目の美しい少年である。少女のような愛らしい顔立ちと、ぱっちりとした大きな両目、病的なまでに白い肌など。|庇護欲《ひごよく》をそそるほどに神秘的な雰囲気を持っていた。 金の|刺繍《ししゅう》が施された|朱《あか》の|外套《がいとう》が彼の銀髪に映える。普段は床
|禿《とく》王家の者たちは、代々|不慮《ふりょ》の死を|遂《と》げていた。 初代皇帝は行方不明のままに、|遺体《いたい》すら見つからず。二代目皇帝は毒殺。そして三代目皇帝|魏 曹丕《ウェイ ソウヒ》は、権力争いの最中に病気で命を落としたとされていた。 今の皇帝はその息子で、幼くして帝位につく。暴君ではないけれど、尊敬されるほどの者ではなかった。どちらかというと、やりたくない皇帝を無理やりさせられたような……のんべんだらりとした、自由人と言われている。「私は先代皇帝、|魏 曹丕《ウェイ ソウヒ》様が生きていた頃、ある存在を探しに|黄族《きぞく》へと潜りこんだのだ」 とどのつまり、|爛 春犂《ばく しゅんれい》は|黄族《きぞく》ではない。|黄族《きぞく》の格好をしているのは、彼らの信頼を得るためであると告白した。「……先生は、いつから|黄族《きぞく》に?」 |全 思風《チュアン スーファン》に|抱擁《ほうよう》され、落ち着いたのだろう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は涙を拭いて|爛 春犂《ばく しゅんれい》へと向き合った。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は一度|瞼《まぶた》を閉じる。そしてゆっくりと開き、|懐《ふところ》から一冊の帳面を取り出した。 その帳面の表紙には[|禿《とく》王朝の歴史]と書かれている。「これには、初代皇帝から今に至るまでの名が記されている」 中身は|機密事項《きみつじこう》なため見せることはできないが、これを元に目的を|遂行《すいこう》しているのだと|口述《こじゅつ》した。「私の目的はいくつかある。その内の二つは他者に伝えても構わぬと言われている」 帳面を引っこめる。 淡々と、それでいて言葉の全てがハッ
全ての事件の黒幕は初代皇帝ではないか。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》のそれはあまりにも現実味がなく、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|全 思風《チュアン スーファン》は眉をしかめた。 しかしその予想に|全 思風《チュアン スーファン》が待ったをかける。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》を膝の上に乗せ、子供の両手をニギニギとした。子供らしい肌の滑らかさはもちろん、男にしては小さな手である。 顎を子供のふわふわとした頭の上に置き、|爛 春犂《ばく しゅんれい》に冷めた眼差しを送った。 ──ふふ。|小猫《シャオマオ》は会った頃に比べて、肉がついたかな? それに、とってもいい|薫《かお》りがする。これは……|薔薇《ばら》、かな? 花の術を使う|華 閻李《ホゥア イェンリー》らしい|薫《かお》りだなと、子供の暖かさとともに|癒《いや》しの時間を味わう。「──|爛 春犂《ばく しゅんれい》、どうして初代皇帝が絡んでいると? そもそも初代皇帝はもういないんじゃないのかい?」 そんなに長生きできる人間なんかそうはいない。 人ならざる力を得ている|仙道《せんどう》であっても、せいぜい数百年程度だろう。しかしそれは仙道だからこそ。 初代皇帝は普通の人間だ。百歳まで生きたら長寿と言われるだろう。「……それとも初代皇帝は仙道だったわけ? そう言いたいの?」 |喧嘩腰《けんかごし》に言葉を投げた。|爛 春犂《ばく しゅんれい》を敵でも見ているかのように、|咎《とが》めるような視線を送る。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は彼からの質問を微笑しながら答えはじめた。「いいや。ただ、死体が見つかっておらぬのなら、その可能性も視野に入れるべきだと思う
|華 閻李《ホゥア イェンリー》は初代皇帝の|寵愛《ちょうあい》を受けた一族の生き残りであった。そしてその一族が|殭屍《キョンシー》事件に|関与《かんよ》しているのではないか。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》を含む先代皇帝たちは、そう考えているようだった。 当然それに反発の声をあげたのは|全 思風《チュアン スーファン》だ。彼は|威風《いふう》堂々としていた姿勢のまま、瞳を|深紅《しんく》に染めて闇を見せた。「……その言葉の意味で言うなら、|小猫《シャオマオ》が関与してるって事になるけど?」 敵対をしているわけではないのに、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を睨む瞳は冷たく凍えている。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は首をふり、そうではないとだけ|呟《つぶや》いた。「|閻李《イェンリー》は何も知らぬだろう。自身の出生の秘密はおろか、一族の事さえわからぬだろうな」「……その言葉に確証はあるわけ? もちろん私はあの子がどんな事をしてても、ずっと一緒にいるって|誓《ちか》ったからね。悪とかそんなのよりも、私がどうしたいか。それが重要だからね」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》という子供を愛するがゆえに、|全 思風《チュアン スーファン》は|冥界《めいかい》の王としての立場を|棄《す》てることができる。 そう、断言した。「相変わらず|全 思風《チュアン スーファン》殿は、|閻李《イェンリー》しか見えておらぬか」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》が苦笑いをすれば、|全 思風《チュアン スーファン》は子供っぽく舌を出して抵抗する。「……心配なされるな。先ほども申したようにあの子は、|殭屍《キョンシー》事件には|関与《かんよ》してお
ガラガラと、三人を乗せた馬車が砂利道を進む。 |全 思風《チュアン スーファン》が|手綱《たずな》を|曳《ひ》き、馬を走らせていた。その後ろにある荷の部屋では、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|爛 春犂《ばく しゅんれい》の二人がいる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は膝の上に白い仔猫こと|白虎《びゃっこ》、頭の上に|蝙蝠《こうもり》の|躑躅《ツツジ》を乗せていた。 二匹のかわいい動物に囲まれて喜ぶ|華 閻李《ホゥア イェンリー》をよそに、|爛 春犂《ばく しゅんれい》は|訝《いぶか》しげな目をしている。 彼の視線に気づいた|華 閻李《ホゥア イェンリー》はどうしたのかと聞いた。「……|閻李《イェンリー》、これから敵対する者との戦いは激しくなるだろう。そうなった場合、お前はどう対処する? 一人でも立ち向かえる強さを身につけねば、話にならぬぞ?」 |全 思風《チュアン スーファン》という最強の王がついている以上、何かしらの心配は要らぬだろう。しかし|全 思風《チュアン スーファン》という男に頼り、自身では何もしないのか。そんな、おんぶにだっこな状態のままでは荷物にしかならなかった。 厳しもくあり、それでいて|華 閻李《ホゥア イェンリー》の行く末を見守る。 彼の言葉の|端々《はしばし》からは|華 閻李《ホゥア イェンリー》を子供としてではなく、一人の|仙道《せんどう》として扱っているということが|伺《うかが》えた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は動物|弄《いじ》りをやめ、真剣な面持ちで彼と向かい合う。「……僕は、剣操術《けんそうじゅつ》を習いたいです」「ほう?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の大きな瞳は揺らぐことはなかった。それどころか、意思を貫こうとする眼
|華 閻李《ホゥア イェンリー》は細長い|筒《つつ》のようなものを握っていた。右手で|筒《つつ》の下腹を持ち、左手は輪になっている部分に人差し指を引っかけている。「……|小猫《シャオマオ》、それは?」 驚きながら質問をした。集めた枝を地に置き、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の前に立った。いつものように優しい笑みを子供へと落とす。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は「ああ、これ?」と笑顔を浮かべた。「僕にもよくわからないんだ。去年だったかな? 花で遊んでたら偶然できて……」「使い方は知っているのかい?」「うん、知ってるよ。まあ、最初は戸惑ったけど……」 苦く笑み、|筒《つつ》を垂直に構える。 |全 思風《チュアン スーファン》は何をするのかと小首を|傾《かし》げた。|爛 春犂《ばく しゅんれい》も同様に何が始まるのかと疑問を浮かべているようだ。「これはね……こう、するんだよ」 左の指を|添《そ》えていた|輪《わ》っかを、ぐっと強く押す。すると筒の出口らしき部分から何かが飛び出した。|全 思風《チュアン スーファン》たちの間を|掠《かす》めて後ろ雑草へと向かい、瞬時にドサッという小さな音が鳴る。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は何事かと雑草をかき分けた。するとそこには、土気色の肌をした|殭屍《キョンシー》が倒れている。しかも頭部から出血し、|痙攣《けいれん》する間もなく亡くなっているかのようだった。「し、瞬殺……あそこに|殭屍《キョンシー》がいたのは知ってたけど……|小猫《シャオマオ》、凄いね」 彼は|冥界《めいかい》の王である。それがゆえに、死者の気配には誰よりも|敏感《びんかん》だ。当然、この場にいる|爛 春犂《ばく しゅんれい》や|華 閻李《ホゥア イェンリー》よりも優れた能力を持っている。 そんな彼にとって|殭屍《キョンシー》という片指で|跳《は》ね飛ばせる存在など、気にもとめる者ではなかったのだ。だからこそ|殭屍《キョンシー》が近くにいても動かず、平気で喋る。 その証拠に剣に手を置いて戦闘|態勢《たいせい》に入る|爛 春犂《ばく しゅんれい》に対し、彼はつまらなさそうに|欠伸《あくび》をかくだけであった。 そんな|全 思風《チュアン スーファン》が手を差し伸べるのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》のみ。 雑草に隠
|黄族《きぞく》と|黒族《こくぞく》が治める地区の|境《さかい》にある|関所《せきしょ》、|友中関《ゆうちゅうかん》。 そこは普段から結果が張ってあり、|殭屍《キョンシー》や妖怪といった|陰《いん》の気を持つ存在を弾いていた。それは周辺地域にも効果があり、|全 思風《チュアン スーファン》たちが野宿をしていた場所にまで|及《およ》んでいる…… はず。で、あった── 山のように重なっている|骸《むくろ》からは大量の出血が見られる。兵として日々を過ごしていたのか、茶色で|簡素《かんそ》な|鎧《よろい》を着ている者たちばかりだった。 なかには旅人らしき者たちもいるが、彼らもまた兵たちと同様に死している。「……これは、全員死んでいるようだね」 腰を曲げた|全 思風《チュアン スーファン》が、近くにいる死体を確認した。 どの|遺体《いたい》も、体のどこかに|噛《か》みつかれたような|跡《あと》がある。「多分、何らかの理由でここに|殭屍《キョンシー》が現れたんだろうね。それが一気に広まり、|屍《しかばね》の山となった」 可能性として|妥当《だろう》だろうと、|爛 春犂《ばく しゅんれい》に語りかけた。 文句を言えるほどの情報がない今、|爛 春犂《ばく しゅんれい》は軽く|頷《うなず》く以外の方法がなかったのだろう。眉を寄せ、両目を細めた。 血まみれの兵を|仰向《あおむ》けにし、|噛《か》み|跡《あと》を確認する。死した兵の開かれた|両瞼《りょうまぶた》に手を伸ばし、そっと閉じさせた。「……この者は、首に|噛《か》みつかれた|痕跡《こんせき》があるな。……しかし謎だ」
|陽《よう》の力に包まれた札は、妖怪などの悪しき者から守るためにあった。しかしその札の中身を意図的に書き換えたりすることで、その効力はなくなる。逆に|陰《いん》の気だけが集まり、|殭屍《キョンシー》などの人に害を成す存在が現れるとされていた。 この|友中関《ゆうちゅうかん》という|関所《せきしょ》は、それが起こっている状態である。 誰が何の目的で行ったかについては不明であるものの、仕組まれた札が事件を起こしているのは間違なかった。「先生」 長い髪を後ろで高く束ね、華 閻李《ホゥア イェンリー》は|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見つめる。小柄で儚げな見目を|惜《お》しげもなく|晒《さら》けだすように、|爛 春犂《ばく しゅんれい》の|袖《そで》を軽く引っ|張《ぱ》った。「この関所で死んでた兵たちは、どこの|領土《りょうど》の者か。わかりますか? 僕はそういうのさっぱりわからなくて……」 頭の上にいる|躑躅《ツツジ》、いつの間にか抱きしめられている|白虎《びゃっこ》。そして二匹に負けない小動物感を|顕《あらわ》にする|華 閻李《ホゥア イェンリー》が、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見上げる。「……っ!?」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は固まり、声が出なくなってしまったようだ。「せ、先生!?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、素でそれをやっていたようだ。突然|硬直《こうちょく》した彼に戸惑い、どうしたのかと慌てる。 「ねえ|思《スー》、先生がおかしくなって……|思《スー》?」 |全 思風《チュアン スーファン》に助けを求めようと、彼へ振り向いた。
扉を開ければ、そこは真っ暗な部屋となっていた。 部屋に到着するなり、|全 思風《チュアン スーファン》は手に持つ|提灯《ちょうちん》を握り潰す。「──ここから先、|提灯《ちょうちん》の灯りは使えない。|提灯《ちょうちん》だけが見えてしまっている状態だからね。使うとしたら術で作った灯り……おや?」 ふと、視界に|橙《だいだい》色の花が飛んできた。それは何かと周囲を見渡せば、銀の髪を揺らす|華 閻李《ホゥア イェンリー》がいる。|橙《だいだい》色の、|提灯《ちょうちん》のような……少し丸みのある、三角形をした花が浮いていた。「|小猫《シャオマオ》、それは?」 どうやら子供が花の術を使い、灯りとなるものを出現させたようだ。ふわふわ浮くそれは、三人の前でくるくると回る。「|鬼灯《グーニャオ》だよ」「……え? でもそれ、|橙《だいだい》色だよね? 私の知ってる|鬼灯《グーニャオ》は、白い薄皮の中に黄色い身が入ってるやつだけど……」 |金灯《ジンドン》、|金姑娘《ジングゥニャン》、|姑娘儿《グゥニャングル》など。地域によって呼び名は様々だが、共通して言えることは、この|鬼灯《グーニャオ》は果物であるということだった。 それを伝えてみると子供は、ふふっと微笑む。「うん、それは食用の|鬼灯《グーニャオ》だね。どっちも元は、|橙《だいだい》色の|鬼灯《グーニャオ》だよ。それを花として見るか、食べ物にするかの違いかな?」 優しい光を放つ|鬼灯《グーニャオ》は、彼らの周囲を回転しながら浮いていた。「……それで|思《スー》、光はこれでいいとして、これから
合流した|全 思風《チュアン スーファン》が呼び出した少女は、水の妖怪であった。名を|水落鬼《すいらくき》といい、溺れた者たちの念が姿をとったとされる妖怪である。 そんな少女の姿をした妖怪はにっこりと微笑み、三人の前で両手を大きく広げた。瞬間、|全 思風《チュアン スーファン》たちの体に水が降り注ぐ。けれど冷たくはない。むしろ、お湯のように温かかった。 やがて|水落鬼《すいらくき》は水|溜《た》まりへと変わる。同時に、三人の体を薄い|膜《まく》が包んでいた。「|水落鬼《すいらくき》の水は、人間の視界から見えなくする力があるんだ。最低一日はもつから、その間にやれる事をしてしまおうか」 淡々と語り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を握る。鼻歌を|披露《ひろう》しながら余裕のある顔で広場を横切った。 その|際《さい》、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|黄 沐阳《コウ ムーヤン》のふたりは、見つかるのではとおっかなびっくり。けれど|水落鬼《すいらくき》の水の|膜《まく》が作用し、兵たちの前を通っても武器すら向けられることはなかった。 そのことにふたりはホッとする。「|思《スー》、地下通路に行くのはわかったけど、どうして|廃屋《はいおく》の裏手なの?」 他にはないのと、純粋な眼差しで|尋《たず》ねた。「聞いた話だと、この町はあちこちに地下通路があるらしい。だけど中から鍵がかかってるらしくてね。唯一外から入れるのは、|廃屋《はいおく》の裏手にあるやつだけなんだってさ」 広場にある細道を抜け、何度か曲がる。数分後には、|廃屋《はいおく》のある地区に到着していた。 |廃屋《はいおく》の裏手へと向かえば、河がある。河の近くには|崖《がけ》があり、そこにひとつの穴があった。一見すると洞窟のようなそこには、地下へと続く階段が見える。 |全 思風《チュアン ス
|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を説得した|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、彼とともに広場の裏手へと向かった。 そこは野良猫や|鼠《ねずみ》などが|徘徊《はいかい》し、お世辞にもきれいとは言い難い場所である。それでも彼らはここを選び、ふたりで兵たちを観察した。「──|爸爸《パパ》たちはここから見える、あの建物の中にいるはずだ」 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、広場の先にある大きな建物を指差す。 柱や壁は|朱《あか》い、二階建ての建造物だ。屋根の角は|尖《とが》っており、どことなく独特な雰囲気がある。その建物の前には寺があり、角度によっては後ろの景色を隠してしまっていた。 「あの変わった形の屋根の建物、あそこに|爸爸《パパ》たちが住んでるって話だ」 ただなあと、困った様子で肩を落とす。「建物の|警備《けいび》が|厳重《げんじゅう》で、中には入れねーんだ」「……屋根の上からとか、窓から|侵入《しんにゅう》は?」 子供の提案に、彼は首を縦にはふらなかった。言葉を|濁《にご》し、口を|尖《とが》らせている。「──|小猫《シャオマオ》、それは無理だよ」 ドスンっと、突然、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が重くなった。原因を調べようと、子供は急いで振り向く。 するとこそには三つ編みの美しい男、|全 思風《チュアン スーファン》がいた。どうやら彼は子供の両肩に全身を預けているよう。子供が重いと言っても、一向に|退《ど》く素振りを見せなかった。甘えるように少年の腰を後ろから包み、|薫《かお》りを|堪能《たんのう》している。 そんな彼の|唐突《とうとつ》すぎる登場に、|黄 沐阳《
突然、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は口を|塞《ふさ》がれ、薄暗い場所へと引きずりこまれてしまった。 子供は何が起きたのかわからず、ひたすら|踠《もが》く。口を押さえている誰かの手にガブッと噛みついた。「いってぇ! こいつ、噛みやがった!」 かん高くはない声を聞き振り返る。そこにはある男の姿が目に映り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の目は大きく見開かれた。「な、何であんたがここに……!? |黄 沐阳《コウ ムーヤン》!」 |外壁《がいへき》に背をつけ、男から距離をとる。 ──さっきまで|櫓《やぐら》のところにいたはずなのに。何でここに……というか、何で僕がいることに気づいたんだ!? ガタガタと全身が震えた。 かつて|黄 沐阳《コウ ムーヤン》に|襲《おそ》われ、|黄《コウ》家を追い出されてしまった。その際、子供は恐怖を味わった。追い出されたことへの恐怖ではない。|襲《おそ》われ、全てを|喪《うしな》うということへの恐れである。 そのことが|華 閻李《ホゥア イェンリー》の心の中にずっと|棘《とげ》を刺していた。 原因は全て、|眼前《がんぜん》にいる男──|黄 沐阳《コウ ムーヤン》──である。「……ふんっ!」 彼は反省をしているのか、それともいないのか。どちらともとれる姿勢でそっぽを向いた。しかしすぐに|華 閻李《ホゥア イェンリー》を|注視《ちゅうし》し、盛大なため息をつく。 めんどくさそうに頭を|搔《か》き、軽く舌打ちをした。「…………」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は|警戒《けいかい》を緩めない。ジリジリと彼から離れ、大きな目で|睨《にら》んだ。 「何で、何で戦争なんかに参加して……」「俺はしてねぇーよ!」 |怒号《どごう》ではあったが、声は大きくない。むしろ控えめで、何かから隠れているような。そんな雰囲気があった。顔を下へと向かせ、両手を震わせていた。 「|爸爸《パパ》がこんな戦争に参加するなんて、おかしいんだ。俺は止めようとしたのに、|爸爸《パパ》は聞いてくれねえー」 顔を上げる。泣いてはいないが、瞳が|潤《うる》む様子が見てとれた。|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと視線を向けたまま、指先だけを広場へと走らせる。 そこには笑顔を振り|撒《ま》く|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》がいた。そして隣には……
「──へえ、あの男が|黄 沐阳《コウ ムーヤン》なんだ」 |全 思風《チュアン スーファン》の声はいつになく低い。瞳の色は|焔《ほのお》のような|朱《あか》にまみれていた。 一緒に隠れている子供を後ろから軽く抱きしめる。あの男殺そうかと、|物騒《ぶっそう》な相談を持ちかけては、|華 閻李《ホゥア イェンリー》に注意された。「もう、|思《スー》ってば! ……それよりも、どうしてあの二人がここにいるんだろう?」 率先して兵たちを|煽《あお》り、まるで戦争をするように仕向けているかのよう。兵たちも彼らを神のように|崇《あが》め、|血気盛《けっきさか》んになっていた。|先刻《せんこく》までの、のんびりとした空気などない。あるのはビリビリとした、戦場にも似たものだけだった。 子供は彼から視線を外し、|櫓《やぐら》にいる男たちを見つめる。彼らは親子というだけあり、背格好や顔立ちがよく似ていた。「……でも、おかしいなあ」「ん? 何がおかしいんだい? あ、もしかしてこの体勢かな!? だったら、|小猫《シャオマオ》を横抱きにし……」「黙ってなさい」「……はい」 明後日の方向にしか行かない彼の口は|華 閻李《ホゥア イェンリー》によって、言葉で|塞《ふさ》がれてしまう。そのことに多少の不満があり、子供っぽく頬を|膨《ふく》らませた。 ──まあ、いいか。この一件が終わったら、たっぷりと|小猫《シャオマオ》を抱きしめる予定だし。 少年の美しい銀髪を|眺《なが》めながら、ふふっと心の中で笑った。 「……それで|小猫《シャオマオ》、何が
息子の想いを届けることに成功した翌日、|全 思風《チュアン スーファン》は、ふっと目を覚ました。 ──あれ? 私はいつの間に寝てしまったのか。……ああ、眠るなんて行為、本当に久しぶりだ。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》という|愛《いと》しい子を隣に置くだけ。たったそれだけなのに、彼は安心して眠ることができた。そのことにほくそ笑みながら上半身を伸ばす。「……あれ? そういえば|小猫《シャオマオ》は?」 キョロキョロと、周囲を見渡した。ふと、|廃屋《はいおく》の奥にある台所に目が止まる。 そこには愛してやまない少年が立っていた。後ろ姿ではあったが、|一際《ひときわ》目立つ銀の髪が頭部でひと|縛《しば》りされている。 いつもと違う髪型に首をかしげつつ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の元へと近よった。 子供の髪から|薫《かお》るのは|薔薇《ばら》か。とても落ち着く、品のある|薫《かお》りである。ふわりと|靡《なび》く銀髪は、壁の隙間から差しこむ太陽の光を受け、|黄金《こがね》色に見えた。 |全 思風《チュアン スーファン》は子供の|神々《こうごう》しさに両目を見開く。「──あ、お早う|思《スー》。よく寝てたみたいだね。もう起きるの?」 彼の視線に気づいたようで、子供はくるりと振り向いた。昨日のように青ざめた顔色ではない。血色のよい、薄い紅色を頬に浮かばせていた。 そんな少年は、顔のところどころに|煤《スス》をつけている。 いつもは服で隠れてしまっている白い細腕や首|筋《すじ》が見え、|妙《みょう》に|色香《いろか》を|漂《ただよ》わせていた。「|思《スー》。今、朝ごはん作ってるから、ちょっと待っててね」「|華 閻李《ホゥア イェンリ
|関所《せきしょ》を守りぬいた兵がいた。彼は|母親《オモニ》の足を治療するため、そして誰かを守りたいという想いから兵へ志願する。 母親はそんな息子を|誇《ほこ》りに思い、子の夢を止めることなどできなかった。けれど代わりにと、祝いの品として一本の|蝋梅《ろうばい》の木を送る。「それが、この枝の元の|蝋梅《ろうばい》。あの男の人に大切に育てられて、あなたの……|母親《オモニ》が息子を想う気持ちがこめられている。それがこの木に力を与え、あなたの元へと届けてほしいって願ったんです」 花や植物の気持ちなと、誰もわかりはしなかった。けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》という少年は花の心を伝え、想いを力にする能力を持つ。それは仙術のようで違う。けれど、それを成し|遂《と》げるだけの力を有していたのは間違いなかった。 もちろん眼前にいる中年女性には、そのことなどわかりはしない。 だからこそふたりは|頷《うなず》き合った。子供の隣に|全 思風《チュアン スーファン》が立ち、その細い肩を支える。 |廃屋《はいおく》に|避難《ひなん》している人々は何が始まるのかと、興味|津々《しんしん》に彼らを見た。「──僕は、あの人の想いを全て届けられるわけじゃない。だけど、知ってほしいんです。あの人がどんな想いで亡くなったのか。最後に願った事は何だったのかを……」 子供の声が|廃屋《はいおく》の中を泳ぐ。 両手を胸の前に、そっと置いた。そして枝に|丁寧《ていねい》なまでの口づけをする。すると|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が優しい光に包まれていった。それは|蛍火《ほたるび》のように小さな|粒《つぶ》で、夕焼けのように美しい。 そのときだった。子供の背中から、ひとつの大きな|彼岸花《ひがんばな》が現れる。けれどそれは花びらを散らし、姿、種類すらも変わっていった。 一本の大きな木
屋根の上を飛び移りながら、ふたりは|杭西《こうせい》の西へと進んでいた。 冬の風と、空から降る雪がふたりの体を打ちつける。|全 思風《チュアン スーファン》は平気なようだが、|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそういかなかった。 子供は彼の|漢服《ふく》を頭から被ってはいる。それでも体力のなさは変わらずで、寒さに震えていた。|艶《つや》のあった唇は紫色に変色している。白い肌は土気色に、体温はぐっと下がって指先から冷たくなっていた。「……|小猫《シャオマオ》、大丈夫かい!?」 子供の体調が心配で足を止める。横抱きにした|華 閻李《ホゥア イェンリー》の様子が少しおかしいことに気づき、彼は慌てて下へと降りた。 近くにある|廃屋《はいおく》の|外壁《がいへき》に隠れ、子供の熱を測る。幸いなことに少年に熱はなかった。けれど顔色を見るに、このまま外で行動するということは避けるべきだと判断する。「|小猫《シャオマオ》ごめんね。君が寒さに弱いって知ってたらこんな……」 自身の|不甲斐《ふがい》なさを悔やんだ。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は紫になった唇のまま、無理やり笑顔を作る。大丈夫だよと、彼の|逞《たくま》しい手に触れた。 ──本当にこの子は優しいな。私に心配かけまいとして、辛いのを押して笑っている。 力があっても、王になっても、大切な子供ひとりすら守れない。そんな自分が憎く、そして情けないとすら感じた。 彼は唇を噛みしめる。「……|小猫《シャオマオ》、辛いときは無理して笑わなくてもいいよ」 「……っ!」 そう言った瞬間、子供の瞳が|潤《うる》んだ。体を両手で包み、その場に|踞《う
|京杭《けいこう》大運河での戦争を目の当たりにしたふたりは、急いで|杭西《こうせい》へと向かった。 到着した町は銀の世界となっていた。 |杭西《こうせい》の中を流れる|河《かわ》には舟が浮かんでいる。河の両脇には家屋が並び、屋根の上に雪が積もっていた。ゆらゆらと揺れる|提灯《ちょうちん》の明かりが、白銀の景色と重なって幻想的に見える。 しかし|肝心《かんじん》の人の姿がなく、町は静まり返っていた。 置き捨てられた|籠《かご》、水|浸《びた》しになった|漢服《かんふく》など。|数刻《すうこく》前まではそこに誰かがいたであろうという、生活感のある風景が置き去りにされていた。「……誰もいないね?」 町の中にある河を進みながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は小首を|斜《なな》めに動かす。呼吸をするたびに白い息が生まれ、はーと吹きかけては両手を温めた。 白い獣である|白虎《びゃっこ》を|暖《だん》として抱きしめる。寒いなあと、体を震わせた。「すぐ近くで|戦《いくさ》があったからね。多分その|影響《えいきょう》で皆、家の中に閉じこもってるんじゃないかな?」 それに雪も降ってるからねと、彼は優しく説明をする。ただ口ではそう言っていても、彼自身、町中での戦争がないことを願うことしかできなかった。 河から確認できる建物をひとつひとつ、|黙視《もくし》していく。 建物が壊れた様子はないので、町の中までは戦争の被害が及んでいないだろうと|推測《すいそく》できた。そのことにホッと胸を撫で下ろしながら、舟を進めていく。 ふと、行き止まりに差しかかった。ここから先は舟では進むことが不可能のようで、ふたりは降りることを決める。「──さあ、私の|小猫《シャオマオ》。転ばぬよう、手を」「ふふ。本当に|思《スー》って優しいよね?」 先に舟から降りた|全 思風《チュアン スーファン》が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の手を取った。 パラパラと|粉雪《こなゆき》が降り続き、ふたりの頭や肩などに落ちて溶けていく。 ときおり足元にいる|白虎《びゃっこ》の鼻にかかり、|虎《とら》はイヤイヤと顔をぶるぶるさせていた。 そんな|白虎《びゃっこ》を両腕で抱き、子供はふふっと|微笑《びしょう》しながら雪を払う。「はは。|牡丹《ボタン》は雪嫌いなの?」「|牡丹《ボタン》?